繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

苦痛と美の関係性

呼吸を止められる、
痛みを与えられる、
快楽に絶望する、
そのすべての欲求は私の思考回路を止めるための道具なのではないかと最近は思う。

どうにも、この二重、三重に重なる思考回路と視点をあまり多くの人は持っていないらしいと気づいたのは大学生の頃だった。その発見に幾分驚かされたことは今でも強く記憶している。この複雑性こそが私の被虐欲をより強固なものにしている。常に私を嘲笑する自分と、その嘲笑されることに価値を見出している自分、そしてそれを第三者として見学し、時になだめる自分がいる。

被虐性の開放がしばらくないと、嘲笑してくれる自分が居なくなる。そこまでの余裕がなくなる。それなのに嘲笑されたい自分は一向に消えなくて、なだめる自分が疲れ始める。別に、わざわざなだめなくてもいいのに、そんな自分はほっとけばいいのに、そうはいかなくなる。それ以上に溢れると、第三者に「壊れたい」と漏らすようになる。もちろん、そんな弱さを持ちたくはない。

苦痛は私にとって、この第三者のバランスを保つために必要なもの。だから、バランスを保てているときの心情は実に穏やかで美しい。苦痛を与えられた後に聞く音楽は決まって美しいものしか許容しないのは、きっとこのせいなのだろう。教会に並べられた蝋燭のように、もしくは桜の咲き誇る神社のように、形式美にも近い美しさが私の脳を支配する。こんなこと言ったって、だれにも分かりはしないのだろう。でも今、私の心はある種の美の境地に到達している。そこに邪念などなくなるのだ。

機会があれば聞いてほしい。ベートーヴェンピアノソナタNo.31最終楽章のフーガを。あの美しさにすっかり染まっているような心地。苦痛から解脱した時にだけ現れる幻想。そう、この世界を知りたくて、この世界に到達したくて、ずっと生きてきたのだなと最近は思う。

「先生」の縄は、ますます鋭さを増し、私はものの数分で限界を迎えるようになってきた。その限界を迎える時間の早さが私の心の安寧を作っている。私のマゾ性が暴れる余地がないことに、ずいぶんと安心しきっているなと最近は思う。「許してください」と言えること、「ごめんなさい」と懇願できること、そしてそれでも決して許されないこと(いや、きっと「決して許されない」という状況はまだ与えられていないのだろうけれども。)そのどれもが、私の一つの基盤となっている。

ああそう、それに美を追求することを求められたこと、音楽を再開させる原動力を作ってくれたことにも大きな感謝を持っている。

関係性はSMバーの店員とその客、ただそれだけ。でも、与えられているものはやはり非常に大きい。

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