繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

discipline #41 欲を見たい

加虐癖や被虐癖を持っている人の多くは、日常ではそれを隠し、一般の人と溶け込みながら生きている。その癖が強ければ強いほど、一般の人としての自分を演じ、社会に溶け込まないと生活のあらゆる面で支障をきたすと思う。

例えば、自分の被虐癖に気付けていなかった幼少のころ、私は自分をいじめの対象として扱われるように仕向けていた。か弱く、抜けがある自分を演じ、いじめられている子をわざと助け、自分がいじめられるように仕向けていた。そうして自分の被虐欲を何とか満たしていたのだと、今振り返ればわかる。被虐欲に気付き、それをネットの世界で発散するようになって、やっと「友達と対等に話せ、遊び、笑い合える」ということが可能になったくらいだ。

加虐癖を持つ人の多くも、その指向性の違いはあるけれど多くはそうなのだと思う。むしろ、優しく、気遣いができる人の方が圧倒的に多く、主も普段は私に対して様々な配慮をしてくださっている。そして、その配慮のレベルは非常に高い。

でも、だからこそ、こういう人の心の奥深くにある加虐癖を覗いてみたい、暴いてみたいという欲が私には少なからずある。本質を覗いて、その本質の性癖を私で満たしてほしいという気持ちが強い。例えば、主が普段のお遊びの痛みの与え方ではない、本当の加虐癖を露わにする瞬間はいまだに心と体が激しく震えるくらいに興奮する。普段、冷静に縛られるからこそ、時より見せるその性癖がたまらなく嬉しいのだ。

連休の最終日、予定していないタイミングで「少し遊ぶか」と仰ったその縄は、私を絶望に落とし、主の加虐癖を存分に堪能するものとなった。普段よりもはるかに痛い股縄、その痛みで自ずと体が力み、体力の消耗が普段よりはるかに速いペースで進む。そこに足される竹。脚を固定され、吊り上げられるまでの時間、私が泣き叫ぶと「近所迷惑だろ」とさらに痛みを与えられる。与えられた痛みに悶えても、これ以上の痛みを与えられることが怖く静かにただ耐える。静かに耐えていれば、痛みはさらに足され、また悶える、そして主にさらなる痛みを与えられる。許してと懇願すれば「じゃぁ、もう縛らないぞ」と脅迫され、それだけは、と何とか耐えるが、耐えればさらに苦痛を与えられる。まさに精神的・肉体的な極限状態に置かれ、拷問を受けていた。主の従者としての役割を果たすだけの存在でいられるかという考えがふと脳裏をよぎる。そして、その不安に押しつぶされそうになり、涙が出る。泣いていれば、主はその顔をみて笑っている。そして、私をビンタした。

「限界は主が決めるもの」と言葉では分かっていても、その限界の遥か先にある限界をも超えて、痛みを与え続けられている状況。責めきるという覚悟と加虐欲だけをまとった主の存在。下ろされたころには全身のあらゆるところが痛み、それでいて、股縄の痛みは消え去っていた。あまりにも痛みが強すぎて、体が感じなくなっていたのだろうか。しかし、解くときに主が股縄を少し引けば、もちろんその痛みは瞬時に戻ってくる。とにかく一瞬でも早く解いてほしい、と思うほどに、辛い縄だった。最後の縄が体からなくなった瞬間、私は倒れこんだ。そして、自分の体が猛烈な幸福感に包まれていることに気付いた。意識が朦朧としながらも、この縄を受けきれたことに喜びを感じ、主の加虐欲を存分に受け止めたことに圧倒的な幸せを感じていた。

縄の後、「いつも殺す気で縛っている」と仰った。この言葉そのものが、主の加虐癖であり、私の求めているものだ。

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