繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

人間であることの優位性

「緊縛」という言葉が(比較的)当たり前に使われ始めている昨今、その言葉の捉え方はあまりに多種多様になっている。そして、その言葉の認知が不一致することによる不運も多いと聞く。わたしが「緊縛」という言葉を知ったのは15年ほど前だった。

ある女性緊縛師のサイトで初めて見たその言葉と、それに付随する写真は私の運命を変えた。そこから、数多という“緊縛”を受けてきて、ようやく自分の求めるものが分かってきた。もちろん、これまでに多くの失敗と幸福を経験している。

緊縛、縄、SM、主従、そういった言葉は、それが伝えるためのツールであって、それを明確に表現できるものでないと最近は思う。そして、相手が表現しているそれら言葉を明確に知るためには、やはり経験をしなければならないのだと思う。それがたとえ悲劇的な経験だったとしても。

では悲劇的な経験を回避していく方法はないのだろうか。私の経験から出す結論は「ない」。そういった経験をしない方法は唯一「そもそもSMをしない」ということである。でも、私はそうできない、残念ながら。

こういった性癖を持つ限り、おそらく一生自分の求めるものを追い続けていくのだろう。そして、それに近いものに触れるという成功体験があれば、それが一種の麻薬となっていくことも分かっている。

今、私が受けている緊縛の1つは、曰く江戸時代に実際に罪人に与えられていた縄筋。必然的に身体を壊すリスクを負っている。関節、筋肉、内蔵、あるいは命、そういったものを壊すための縄筋。そして、そこに「芸術性」や「愛情表現」という前提はない。女囚が捉えられ、拷問をされ、自白させられ(そして、犯され)るだけの縄。現代緊縛とはまるで違う。それこそ「悲劇的な経験」と言えるものなのかもしれない。

でも、私はその縄を好きになってしまっている。その、苦痛になぜか愛情を感じてしまうのである。

加虐者が笑顔で私を壊していく。ある程度の加虐であれば理性を保ったまま受けられるが、一定を超えると理性を失う。私の複数ある思考回路の1つずつが崩壊する音が頭の中で聞こえる。1つ、また1つ、と思考回路を壊されていく。最終的に残るのは苦痛を感じ、それを表現するだけの思考回路。恐怖に叫び、涙を流し、逃げる。その一連の行為が、私を安心に導く。私にはまだ耐えられないものが多いと。私の限界はまだ、この人には及ばないと。その瞬間、幸福の絶頂にいたりする。

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翌日になって、体のさまざまが痛み、傷ついていることにようやく気付くのである。痛みが正常な範囲として感覚に戻ってくる。その感覚をもって、私はマゾである自分よりも人間である自分の優位性を認めたりするのである。

 


 

今年も本ブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。みなさまにとっての「SM」や「緊縛」がどうか幸せな要素でありますように。

Best wishes for the new year.