繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

column #7 SMは暴力か

主がただただ、殴り、蹴り、抓り、私をサンドバッグのように扱う時がある。

完全な暴力だ。理由なんてなんとでもなる。気分が悪い、イライラすることがあった、私がミスをした、言葉が悪い。「お仕置きをする理由なんていくらでも作れる」と言ったのはいつかの主だ。それは本当にその通りで、私はいつだって様々な理不尽な理由で殴り蹴られる可能性がある。

求めてない痛みを与えられ泣くことなんて日常茶飯事で、その暴力を拒否する権利は私にはない。そういう立場だ。そういう立場にしてくれと言ったのも私だ。

SMは愛情表現だという人がいる一方、SMは暴力だという人がいる。SMの中でも「これは暴力」、「これは愛」なんて使い分ける人もいる。そういう人にとっては、縛ることは愛で、殴ることは暴力なのか?私はその線引きは大いに違和感を覚える。

本来の意味でのSM(つまりは加虐と被虐)であれば、どのプレイだって暴力には違いない。SMをしない人の中に、圧倒的な立場の差がある人間を痛めつけることが愛情表現だなんていう人はいないだろう。

では、SMはやはり暴力か。実はそれも違和感がある。マイノリティな性癖なのは重々承知だが、私の価値観からすると、やはり主が与える痛みは愛情表現であると思っている。それは縄や鞭だけではなく、私を叩き蹴り、理不尽に泣かせることも含めて。

この現代社会においては、実は暴行を受ける側よりも暴行をする側の方が圧倒的に弱者だと思う。人生を破滅する可能性を秘めているから。主従と言ってもそこには何の取り決めもなく、ましてや「奴隷だから殴っても良いと思いました」なんて理論はもちろん破綻している。

それでも、主は私を殴る。それはつまり、私が絶対にそういった考えにならないことをわかってるから。それらの行為を私が受け止めることを理解し信じているから。信じる強さが主の愛であり、信じているからの行為が主の愛情表現であると思う。しかし、その行為が暴力であることには違いない。つまり、暴力=愛、SM=暴力=愛という考えに行き着く。

理不尽に怒られ、泣き続けたことなど数えきれない。このブログには書けないようなこともあった。縄でも鞭でもプレイでも調教でもなく殴られ続けることだってある。それでも私は主の足元にいるし、その覚悟は1ミリも揺るがない。

言い換えれば、私の愛情表現は、主の暴力も理不尽も全て受け止める、そのものである。

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