繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

SMで遊ぶ、ということ

「SMで遊ぶ」と言う表現をし始めたのは、最近のように思う。これまでは、SMは主従関係の人とのみするものだと私は定義していた。でも最近は、SMで遊ぶ友人や、お店、場所がある。それを素直に楽しめていたりもする。

もちろん、遊べているのはパートナーである彼の存在があるからで、だから私は彷徨うことなく、不安定になることなく、純粋にSM的な苦痛や羞恥、快楽に溺れられているのだろう。

 

ただし、遊びだからと言って決して中途半端なことはしない。中途半端な相手ともしたくはない。やるならとことん、しばらく立てなくなるような、現生に戻れなくなるようなプレイでなければ時間の無駄だと思う。

ある友人のプレイはとても面白い。縄や鞭、そのほか様々なことをするが、どのプレイでも一貫して私の脳の回路を揺さぶってくる。多方面から揺さぶりをかけられるので、破壊度も高い。

縄は「後手から始まる」といった典型を再現するものではなく、また、激しい痛みがあるわけではない。私が経験したことがない縄筋で、ゆっくりと深海に堕ちていく。呼吸が浅くなると脳から危険という信号が発せられるが、その信号は快感の中に溶けていく。大きくなった快感は痛みで飛ばされ、痛みは再び快感によって飛ばされる。

あぁ、そう、鞭を打たれる時に全身を脱力させる癖がついたのは最近。責め手との相性が良ければ、そのまま精神が肉体から離脱できる。打たれていることはわかっているが、叫ぶことはなく(叫べなくなるほど全身が脱力し)、その痛みの全てを快楽に変換するように、体が変化してきた。反応がなくなることに責め手は不安になったり、面白く無くなってしまうのだろうか、とも少し思うが、でも、私がそのような状態の時は、つまり、与えられている感覚が確実に脳の中枢まで届いているということ。そんなプレイばかりを最近はしている。

肉体を操られる、自分の無自覚な感覚を見られたい、というのは昔からの願望。その一つが尿道カテーテルを入れられての強制排尿。様々なリスクや行うハードルの高さからなかなか実現はできていなかったが、友人が安全を考慮した上で叶えてくれた。

身体検査をされ、生殖器の特徴を口に出される羞恥、体の中に入っていく管の感覚、「おしっこが出ているね」と言われなければ分からないほど無自覚に流れていく尿、たまらなかった。なんというのか、自分の体が他者と道具に支配されている、という感覚がどうにも好きなのである。SM、というカテゴリを改めて様々行うと、15年前のまだ何も知らなかった頃の幸せが戻ってくるような感覚になった。

 

縄や鞭や、排尿、洗濯バサミ、快楽責め、要はなんだっていいのだと思う。全ては相手と精神エネルギーの交換するためのツールでしかない。

自分は苦痛だけを求めるマゾではないんだろうと最近は思っている。本当に求めているのは、相手との精神の共有であり、その中で生まれる関係性の温かさなのかもしれない。

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