繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

discipline #33サディスト

主との地理的距離の近さもあり、最近は日常と非日常の差があまりないように感じる。プレイ(といっても、セックスは全くしないが)の日だけでなく、主のお仕事場へのお見送り、休日の買い物、仕事終わりの呑みなど、そういったものも含めるとほとんど毎日と言っていいほどお会いしている。

主と出会う前はSMに日常が入ってくることが怖いと感じていた。日常になった瞬間に関係が壊れていったことが多いからだ。比較する訳ではないが、だからこそこれまでの主は名前に「さま」をつけて呼んでいたし、謝罪するときは「申し訳ございません」と言っていた。その言葉を選ぶことによって私は奴隷でいたし、いれたのだと思う。

そう言えば、主と出会ってしばらく経った頃、粗相をして「申し訳ございません」と言ったらそれはビジネスで使う言葉だ。そこに本当の気持ちはない。と言われたことがある。あながち間違いではないなと思った。「申し訳ございません」というその言葉を言うことが目的であり、自分が奴隷だという快感を得るためのツールだったのかもしれないと、ふと思った。それ以来、主に謝罪するときは「ごめんなさい」とストレートに言う。(最も、それ以上の徹底した反省を求められる訳だが。)

主と一緒にいる限りなく日常に近い時間であっても、主は徹底的に私を痛めつける。手を握れば強烈に握り返し痛みに悶絶する私を見て笑っているし、外でも粗相をすれば、いや、粗相をしなくても主の楽しみがそこにあれば叩かれ、殴られ、蹴られる。尻を出せと言われれば即座に四つん這いになりスカートを捲る。ほとんど脊髄反射のようにそういう動作が出てくる。

それは、初期の頃に徹底的に植え付けられた主への恐怖を今なお持ち続けられているからなのだろう。例えば、縄で叩かれればその一発であの限界まで落とされた日の鞭の痛みが蘇り、あの時の主の表情に怯えられる。随分と調教されてきたんだなぁと思う。それが喜びであることは言うまでもない。

主は自分のことをサディストではないと言うが、まぁ、それは冗談だろうと思う。あれほど自然体で人を加虐し、支配する人に私は出会ったことがなかった。私の呼吸を禁止し落ちる瞬間に大声で笑い、限界で叫べば、冷静にさらなる痛みを与えてくる。生粋のサディストだからこそ、陳腐な言葉の選択は不必要だったのだろう。そして、私は自然体のまま、何も作らず彼の足元にいて、安心してマゾであり、サブでいれる。自分の被虐性が彼の加虐性を凌駕することがない、という絶対的な安心の中で。

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