繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

discipline #19 夏

気がつけば、盛夏となり、蝉が朝からけたたましく鳴いている。目覚めたら主がいる朝の、あのなんとも言えない幸福感は何度経験してもたまらなく嬉しい。

昨日は、ご飯屋さんで粗相をしてしまい、厳しくお叱りを受けた。主は他者に迷惑をかけることについて非常に厳しい。「みっともない真似をするな」と、いつも仰る。私の言動は主の他者からの評価に直結し、私の粗相について、主は責任を持たれている。だからこそ、私は普段から主の従者としての振る舞いを心がけるべき。そのことは十分にわかっていた筈なのに、また、ご迷惑をおかけした。

朝、主にその件について謝罪をしたら、頭をそのまま掴まれ床に押し付けられた。許してもらえたのだとその行動で感じる。そして嬉しくなる。主の足元にいて、主の言葉を聞き、体温を感じる。そして、改めて従者として気を引き締めなければならないと強く思った。

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「いつもと違う夏」というフレーズが2年連続で使われている。でも、去年とは大きく違うことがある。パートナーがいるという強い安心感がある、ということ。また、いろいろな遊びを主が次々と提案してくださることも、私にとってはあまりに贅沢なことだと思う。

「夏」について、私はあまり良いイメージがない。子供の頃、夏休みはひどく退屈で窮屈なものだったから。子供の頃の毎年の夏の家族旅行は、毎日の夫婦喧嘩が大きくなるだけのものだった。私はいつも、いつ火花がこちらに飛んでくるかとビクビクして、そして結局飛んできた火花に耐えていた。私を殴ることで気持ちを鎮める父親と、私が味方だという安心感で自己承認欲求を満たす母親との板挟み。海も、花火も、満点の星空も、見たことはある。ただその思い出全てに親から受けた虐待が付き纏っているのだ。

先日、田舎の古民家に宿泊し、主と満天の星空を見た。そのさらに一週間後は海に行き、浜辺を歩きながら、夏を感じた。そういう何気ない時間が本当に信じられないほど幸せに感じるのは、きっと子どもの頃は色んなことに頭を働かせすぎて夏を楽しむ余裕なんてなかったからなのかなとも思ったりする。

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頭を常に働かせている、というのは緊縛されている時もそう。苦しんでいる自分の上で、自分を冷静に見ている自分がいる。そして、自分が出している反応や、縛り手の感情や性欲全てを察知しようとしている。主と出会うまでは、緊縛されているときにまるで二重人格のようになることも少なくなかった。いつも私や縛り手を冷静に見ている私が存在する。そして、縛り手の興奮が分かると、私の気持ちはどんどん冷めていってしまうのだ。

でも、主の縄ではそれが出来なくなった。細かくいうなら、責め込まれて限界に落とされると出来なくなる。「上から見ている自分」を作ることまで頭が回らなくなる。思考が停止して、ただ苦しさだけで満たされていく。多分、ここが、これほどまでに主の縄を求める理由の大きな割合を占めているんだと思う。

よく、縄に入る、とか、スイッチが入る、というけれど、それは私にとっては自分自身に催眠をかけているようなものだった。もちろん、それが悪いとは思わない。縄に自ら入っていくことによって、快楽や苦痛を大きくできるなら、それはそれで楽しい。

でも、主は、私が自分で入らなくとも、わたしの求める強さ(それ以上)の苦痛を縄だけで与えられる。こんな縄にはかつて出会ったことがなかった。更に、苦痛を与えられてその空気感に酔っている時に、スイッチを切られることもある。つまり、マゾとしての興奮や快楽を抑えられながら、純粋な苦痛を味わうことになる。痛みを「快楽+痛み」に変換することさえ許されないあの時間は、まさに拷問そのもの。

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ただ、そんな拷問のような縄を受ける度に、やはり私はマゾとしての喜びを強烈に感じている。純粋に苦痛が、自分の感情を支配されることが、相手に全てを差し出すことが本当に好きなのだと最近改めて思う。

もちろん、未だに普段は、私を上から見ている自分が、私の中にいる。主から徹底的に苦痛を与えられている時間以外は、自分が自分をコントロールしているようにも思える。

そしてきっと、そのセルフコントロールに疲れてしまうから、他者からの支配を求めるているのだと思う。

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