繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

discipline #18 調教のその先

気づけば、今日で今年も半分が終わろうとしている。そして出会ってから、支配下に入ってから、8ヶ月が経った。

もちろん、この期間には色んなことがあって負の感情を抱く時間もあった。でも、その度に主の想いの強さ、私を支配下に置いている覚悟が見える。私は「奴隷にしてください」と言ったあの日から何も変化することなく彼の足元にいることの安心感を持ったままだ。

 

初期の頃にはよく怒られ、奴隷としての身分を叩き込まれた。調教とはすなわち訓練だ、と言葉でも行動でも叩き込まれていた。

 

そして、ふと最近思った。「調教の後に遊びがあるんだ」と仰っていた、その「遊び」の段階に少し入っているのではないかと。

最近は、縄や写真、普段のやり取りに遊びが出てきたような気がする。もちろん、縄で落とされる時は徹底的に、鞭で痛めつけられる時はどれほど泣き叫んでも許してはもらえない。でも、その他の時間はお互いが心地よい空気感や距離感で過ごせているのではないかと思ったりする。

 

素敵な写真が撮れそうな古民家を探したり、温泉に行ったり、平日の仕事帰りに主の家に行って会話をして家事をして帰る、こんな時間を楽しめている自分がいる。(以前の私なら「痛めつけて、苦しめて」という感情でいっぱいになっていただろう。)

 

それは、彼が日々の中で私のマゾやサブの要素をごく自然に満たしてくれているからだと思う。被虐性や被支配欲をこれほどまでに満たしてくれる主はこれまでにはいなかった。

 

先週末は素敵な古民家を見つけて縄をして楽しんだ。もちろん、縄の時間は徹底的に責め込まれる。呼吸ができるかできないかの寸前。体を痛めないギリギリのラインを2人を探る。「もうすぐ限界」と素直に言えることも、この関係性だからこそ、と思う。

 

一縛目、久しぶりの逆さ吊り。

右の太ももに縄が食い込み体が上がり、方向感覚を失う。そこに聞こえる主の言葉。落ちてくる汗。自分の体が苦しみの悲鳴をあげても、まだもう少し、もう少しだけ、この時間に浸っていたい、と思う。私の限界は主が一番理解しているから、安心して極上の苦しみに浸れる。下された時の解放感、この縄を受けられる喜びが一気に湧き上がる。

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二縛目、股縄の責め

撮影だから、とかけられた縄は決して撮影用ではない本物の拷問縄。股縄で徹底的に責め込まれ、声にならない声が出てくる。大事なところに傷がつけば、数日間は排泄のたびにその痛みを感じることになる。それを分かっていてなお、責め込まれることが嬉しい。私の体は主のものなのだと強く思える。私の体に与えられる傷も痣も、全ては彼の愛情表現だ。

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三縛目、階段での緊縛。

手首だけを縛られて階段に固定される。そのあと体を縛られていく。手首に体の重さが乗っていく。その苦しみに耐えながら、体を締め付けていく縄に酔う。脇の下に通る縄は普段の後手では感じられない快感だった。抱きしめられているような感覚。さらに苦しみを足したくて、「階段から足を離したい」と言うと「してみて」という優しい主の声。2人で話しながら責めの強度を試せることはこの関係性だからだな、と思う。

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そして最後。柱縛り。

私が最も苦手としている縛り。苦しさの種類が吊りとは違う。キリキリと内臓が潰れていくような感覚がある。それでも容赦なく責め込まれる。股縄を仕込まれた後に太ももを縛られ、さらに大きく開かれる。目隠しをされ、極限の苦痛が体を包む。「限界まで責める」という主の気迫を感じる。絶望を感じ赦しを乞うても、決して縄は緩まない。まさに、拷問そのもの。ようやく解放された時には涙が出ていた。

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主の縄はどんどん進化する。私が求めれば求めるほどに、主の責めはますます容赦のないものになっていく。そして、その縄の強度や責め方をとことん話し合う。体感がどうだったか、不快なところや痛めるような要素はなかったか、これを他者が受けたらどのように感じるかなど、私が縄で感じ、考えた全てを伝えて、それを主は次の縄への材料にする。

この、2人だけの真剣な遊びはこれからも続けていきたい。ただただ、ひたすらに楽しい。