繭の記憶

あるマゾにまつわる物語。

discipline #31 自然体

私たちが自然体でいられる時間はそれほど多くは無い。

社会的役割や家族での役割に応じて私たちはいくつもの面を使い分けている。完全に自分を解放できる時間は一人になった時くらいしか無いのでは無いかと思う。

主に出逢う前の私は、性癖を解放する時間であっても完全に自然体でいることはなかった。従者という役割を演じていたように思う。言葉遣いひとつ、所作ひとつ全てを緊張感を持って行い、そこに日常の私がいることは許されないと、従者という身分に徹する必要があると思っていたから。

実際、私は主と出会ってしばらくはそのような完全な従者になろうとしていた。でも、おそらく私の頭の回転では主が求める完璧な従者になれないということも感じていた。そして、主は少しずつ私の固定観念を破壊し、私の素の部分を私自身に見せるようにコントロールしてきたのではないかと思う。

例えば、欲求に弱いところや、精神的な弱さ、面倒くさがりのところ、そういうマイナスの面を主は必要に応じて躾、逆にそれを許容されてきた。

その結果、私も主も自然体のままにプレイをできるようになった。拷問縄の途中で笑うこともあれば、主の一言にイラついた私を見て笑われたり、たまに、私が言い返して痛みを与えられたり。

そもそも、SMを(ほぼ生まれながらの)性癖で持っている者にとっては、自然体でいる時間こそ、最大にその性癖を開放している状態だと最近強く思う。日常の時間の中でごく自然に苦痛を与えられ、いつ何時もそれが喜びだと感じる。痛みや時・状況によって、これは愛だ、あれは暴力だ、などという線引きはない。私が主から与えられているすべては、世間一般から言えば暴力であり精神的な虐待行為である。ただ、私はそれで喜びを感じる。それが性癖。

 

私には主以外にもう一人だけ心から尽くしたいと思う相手がいる。私が一人だった時からずっと心の支えになってくださっている女王様。彼女こそ究極の自然体だと思う。プレイもそれ以外の時間も私をおもちゃとして使い、素敵な笑顔を見せてくださる。その顔を見れる時間は主のそれを見るのと同様に堪らなく幸せ。

あの二人が笑いながら私を痛めつけている時間は私の性癖の全てを満たしてくれる。そして、私はその時間こそ最大に自然体でいる。マゾとしての私のままで。

 

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